カテゴリー「04 千葉 久公」の34件の投稿

2015年8月11日 (火)

エイト社員ブログ 「感謝することについて」

歳をとったせいか、
体に良いことをしようと考えることが増えました。
その一つが、「一日十回感動(感謝)する」ことです。
ところが、この十回というのがとても大変です。
生来、横着(おうちゃく)な私は、
そのうちの五回は、毎日同じものと定めました。
そのヒントを、工藤直子さんの二つの詩から得ています。

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◇はじめて

「あした」というじかんは
はじめて会うじかんだから
あしたになったら ちゃんと
あしたに
「こんにちは はじめまして」
と いおう

◇こんにちは

うえむいて あ、そら
― こんにちは
したむいて お、じめん
― こんにちは
みぎをみて ほ、風がふく
― こんにちは
ひだりをみて わ、いいにおい
― こんにちは
いろんなものが
わたしのまわりで
おたがいに
「こんにちは」と いっている

これが「いる」ってことかな
これが「いきる」ってことかな

そうです、「こんにちは」を「ありがとう」に変えて、
感謝しています。
「朝起きて窓を開けた時」、「空を見上げた時」、
「地面を踏みしめた時」、「風を感じた時」
そして「いいにおいがした時」の五つです。

英語でも、
Count your blessings(頂いた恵みを数える)と言い、
辛(つら)さ、淋(さび)しさ、喜び、悲しみのすべてを
恵みとして数え、感謝することだそうです。
私自身は正直なところ、辛さや、淋しさに対して
感謝するところまでは、できていません。

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渡辺和子さん(「おかれた場所で咲きなさい」や
「面倒だから、しよう」等の
著者:ノートルダム清心学園理事長)の
著書「忘れかけていた大切なこと」の中に
次のような一文があります(以下、一部抜粋)。

『その日の出来事の中から
三つの「感謝すべき」ことを手帳に書く習慣を実行している。
大きなことでなくていいのだ。
小さなこと、
例えば、取り入れた洗濯物がパリッと乾いていたこと、
混んでいた電車の中で、
運よく前の席が空いて座れたこと、
これら、ごく平凡なことでいいのだ。
しかしながら、この小さな習慣は、私を前よりも
幸せにしてくれている。
なぜなら、いままで”当たり前”と思っていたようなことが、
当たり前でなくて“有り難い”、つまり、有ることが難しい、
したがって感謝すべきことだと思えるように
なったからである。
一方、私たちは、何と多くのことに、
感謝しないままで生きているかということに、
気づかされるようにもなった。 ・・・・(中略)・・・・ 

幸せを他人(ひと)任せにしないために、
どんな状況の中においても自分を幸せにするためには、
工夫が要る。努力しないといけない。
そしてそのために、「恵みを数える」小さな習慣は、
立派に一役買うことが出来るのだ。』

また、武者小路実篤著『幸福について』の中にも、
「幸福は運命から与えられるよりも、
寧(むし)ろ努力で獲得するほうが多い。」
と書かれていますし、
かのリンカーン(第16代アメリカ大統領)にも、
次の言葉があります。
「およそ、人は、幸福になろうとする決心の強さに応じて
幸福になれるものだ」

幸福になるには、「そうなるように努める」ことが
必要なのだと感じています。
少し話がはずれますが、山田洋次監督の
「男はつらいよ・寅次郎物語」の中にこんなセリフがあります。

満 男 「人間は何のために生きてるのかな」
寅次郎 「何て言うかな、ほら、
     あー生まれて来てよかったなって思うことが
     何べんかあるだろう、
     そのために人間生きてんじゃねえのか」

さて、「今日は、残りの五つの感謝を何にしましょうか」

参与 大隅 晃 

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2014年11月 2日 (日)

エイト社員ブログ「馴(な)れから離れる」

『 行く先に都の塔や秋の空 
  もう、京都へは行かないのかと炭太祇(たん たいぎ)の句が誘う。 』

竹西寛子(たけにし ひろこ)さんの随想集に、こんな一文が載っています。 
これについ乗せられて、紅葉にはまだ間がある(10/7)のですが、
十七年ぶりに京都を訪ねました。
私自身は無信心であり、『日本は神なき社会といわれているが、
考えてみると、この水と緑の豊かな風土でどんな神が必要なのだろう』
という立原正秋(たちはら まさあき)さんの意見に賛成ですが、
京都の街では何度も参拝していました。

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(左)金閣寺
(右)銀閣寺

さて、私が十七年前(1997年)に京都を訪ねた時の旅メモに、
次のような行程が書かれていました。

7/30
長岡天満宮→嵐山、美空ひばり館→オルゴール博物館→天龍寺
→太秦(うずまさ)映画村→妙心寺→竜安寺→金閣寺

7/31
(宇治)万福治→平等院→伏見稲荷神社→東福寺→銀閣寺

当時、京都駅から嵐山まで電車で行き渡月橋(とげつきょう)を渡って、
とても暑い日差しの中をバッグ一つ担ぎながら徒歩で歩き回った記憶が残っています。

今回の旅の大きな目的は、「京都御所」を訪れることでした。
京都御所・仙洞御所・京都迎賓館を含む面積約63haの国民公園全体は
「京都御苑」と呼ばれ、広大な敷地は京都市民の憩いの場所になっています。
広さで言えば、
昭和記念公園(立川市)が148ha、新宿御苑が58haですから、
京都御苑は、新宿御苑よりほんの少し広めで東京ドーム13個分くらいです。

京都御所(南北450m、東西250mの方形)は
東京に遷都されるまでは歴代天皇のお住まいであり、歴史上重要な舞台です。
http://sankan.kunaicho.go.jp/index.html

主な建物には、紫宸殿(ししんでん)、清涼殿(せいりょうでん)、
小御所、御学問所、御常御殿などがあります。
紫宸殿と清涼殿については、次のように捉(とら)えていました。

紫宸殿は、様々な儀式を執り行う正殿で、
大正天皇と昭和天皇の即位の礼もここで行われています。
正面に18段の階段があり、そこから登り降りをしますが、
無論一般人が登る事は許されていません。
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清涼殿は天皇の日常の御生活の場で、
建物内は紫宸殿よりは細かく仕切られています。
中央の母屋は天皇の休息所でした。その東には天皇の執務所である
2枚の畳を敷いた昼御座があります。
見学コースからは、中の様子がうっすらと窺(うかが)えました。
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京都は、平成6年に、世界遺産条約の文化遺産条約リストに、
「古都京都の文化財」として17の社寺が一括登録されています。
金閣寺と銀閣寺もその中に含まれます。
日本では、法隆寺、姫路城についで三番目です。
最近では、富士山がこれに加わりました。
富士山登山の現状はどうも感心しません。
屋久島や白神山地などとの比較ですが、もっともっと大切にしたいものです。

ところで、竹西寛子さんの著書『望郷』の中に、
「馴(な)れから離(はな)れる」という表題のエッセイが載っています。

(抜粋)
『・・・日頃疑いをもっていない内容についても、
一度は離れて対象化してみる必要があり、それは言うまでもないことながら
易しい作業ではない。
しかしこういう経験を私という人間は大切にしなければならない。・・・』

勿論、旅のことを言っているわけではありません。
しかし、いくばくかの余裕を持って見ることの大切さは竹西さんの言うとおりだと
感じています。日常の生活習慣から、たまには離れて見ることも必要です。
それによって、また前進するエネルギーが湧いてきますから。
旅をすることは、これにぴったり当てはまる気がします。
宇野千代さんの『感動は行動に結びつき、人生を愉(たの)しくする』というのも
大好きな言葉です。

年を重ねると、体のあちこちに綻びが出てきます。
しかし、「いいものを見る」「心のどよめき」「よろこび」を、
できるだけ自分の足で歩いて、たくさん味わいたいものです。
今年、亡くなった親父の年齢に並びました(68歳)。
来年の健康を少し気にしながらも、大きな病気もせずにここまで来れたことに、
心から感謝しています。

『裏をみせ 表をみせて 散る紅葉』までには少し早目の旅行でしたが、
京都は、五大(地水火風空)のバランスがとれた姿を相変わらず留めていました。
いつかもう一度訪れ、今度は「嵯峨野トロッコ列車」に乗りたいと思っていますが、
さて叶いますかどうか。

参与  大隅 晃

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2014年8月 1日 (金)

エイト社員ブログ「石井桃子のことば」

高尾山(八王子市)に時々行きます。
朝8時頃、稲荷山(いなりやま)コースを通って山頂まで歩いていく途中、
下りてくる人と出会う時、(無論、お互いに見ず知らずではあるが)、
「こんにちは」と挨拶を交わします。
この挨拶(言葉)は、何とも言えず気持ちの良いものです。
街なかでは、こういう光景は少なくなり、残念に思っています。

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ところで、翻訳家であり作家である石井桃子さんの書いた本には、
皆さんも子供の頃どこかで会っている人が多いのではないかと思います。

クマのプーさん   ノンちゃん雲に乗る   ピーターラビットの絵本
ちいさなうさこちゃん   トムソーヤの冒険   フランダースの犬
小公子   家なき子   ピーター・パン …
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『石井桃子のことば』という本が5月に新潮社から出版されています。
石井さん(1907~2008年)は、平成20年に101歳で亡くなるまでに
約2百冊の子どもの本を世に送り出しています。
「名が残るのではなく、本が残ってくれればいい」と話していたという、
精魂こめた仕事の数々は、その言葉通を裏付けるものとなっています。

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かつら文庫で子どもたちに本を読む石井桃子さん。
左隣の女の子はエッセイストの阿川佐和子さん。

本書に書かれている言葉の中から二つご紹介します。

1.子どもたちよ
  子ども時代を しっかりと
  たのしんでください。
  おとなになってから
  老人になってから
  あなたを支えてくれるのは
  子ども時代の「あなた」です。

2.本は一生の友だち
  本は友だち。一生の友だち。
  子ども時代に友だちになる本。
  そして大人になって友だちになる本。
  本の友だちは一生その人と共にある。
  こうして生涯話しあえる本と
  出あえた人は、仕あわせである。

 
機関誌『こどもとしょかん』に石井さんが書いた
「待合室」というタイトルのエッセイが残っています。

『このごろ、私は十日ごとにお医者にいく。
医院には待合室がある。そこへはいっていくとき、先客があれば、
私は必ず頭をさげてあいさつする。「今日は」のつもりである。
そのとき、おもしろいのは、私を全然無視する人がかなり多く、
そのほとんどが若者、幼い子をつれた母親、「一家の長」といった
だんな方であることである。
私は、そのひとたちの態度のよしあしをいっているのではなく、
事実をのべているだけである。にもかかわらず、
私を空気同様に見るとき、その人たちの頭の中はどう働いているのか、
いないのかについて、私は興味をもたないわけにはいかない。
ところが、先日、待合室に劇画を見ている若者、子どもづれの母親二人、
初老のご婦人と私がいたとき、四十ほどの、さっぱりした身なりの男性が
はいってきた。
彼はドアをあけると、「おはようございます」とはっきりいって、頭をさげた。
すると、部屋じゅうにいたおとな(劇画を見ていた若者もまじえて)は、
そろって彼に礼を返した。
男の人は私の隣にかけ、それきり口をきかずに、手提げから出した
厚い本を読みはじめた。私の番がきて、「ごめんください」と、その人の
前を通ろうとすると、「どうぞ」と、ひざをひっこめてくれた。
その日以来、私は何度その人のことを思いだしたかわからない。
そうしているうち、その人は、昔話から出てきて、私の隣にかけたのだと
さえ思えてきた。その人は、私に「言葉を信じよ」というために、
あの待合室にあらわれたのではないだろうか。』

私たちが日常使っている言葉は本当に大切だなあと感じています。
特に、「ひびき」「簡潔さ」「やさしさ」を備えた言葉は大切にしたいと思います。
村上信夫(むらかみのぶお)さん(元NHKアナウンサー)の著書
「嬉しいことばの種まき」のあとがきには、ご自身の詩が載っています。

嬉しいことばの歌
「おはよう」って言えば、心の窓が開く 
「ありがとう」って言えば、心がニコニコする
「いただきます」って言えば、心がつながる
「おかげさま」って言えば、心がおじぎする
「よかったね」って言えば、心が一つになる
「だいすき」って言えば、心がウキウキする
「だいじょうぶ」って言えば、心がやわらかくなる
「おやすみ」って言えば、心がまあるくなる
「おやすみ」

イギリス詩人の言葉に、
『言葉は大事にしなければならない。磨けば光るものだ。』
というのがあります。
言葉は形のないものですが、このような素敵な言葉が、
日常生活の中にあふれることで、少しでも明るい世の中にしたいものです。

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ところで、当社経営計画書の『推薦図書リスト』に、
この「嬉しいことばの種まき」が今年度から新たに追加されていました。
どなたが推薦したのか分かりませんが、少し嬉しい気がしています。
この推薦図書リストへの書籍掲載については、
一定の基準が必要なのでしょうが、今は出来るだけたくさん載せてほしいと
感じています。
社員の皆さんに、是非とも「生涯話しあえる本」に出会ってほしいからです。

 

参与 大隅 晃

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2014年7月30日 (水)

エイト社員ブログ 「山梨県立美術館 生誕200年ミレー展」

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7月19日から、山梨県立美術館で「生誕200年ミレー展」が開催されています。
画家:ジャン=フランソワ・ミレー(1814~1875年)は、フランス西北部
シェルブール市近郊の小さな村で農家の9人兄弟の長男として生まれています。
裕福な家ではなかったのですが、
篤い信仰心と誠実な愛に満ちた家庭で育っています。
少年ミレーは農業を手伝いながら、書物をよく読んでいました。

ミレーは、「農民画家」と呼ばれています。当時は、「歴史画」「肖像画」
その次に「風俗画」「風景画」「静物画」という序列が厳然と存在し、
サロン展に何回も落選しています。当時の第一人者はドラクロアでしょう。
官展が「方形の間(サロン・カレ)」で開かれていたので
「サロン展」と呼ばれました。

有名な作品に、「晩鐘(ばんしょう)」「落穂拾い」「種まく人」等があります。
山梨県立美術館の常設館でも、「落穂拾い、夏」「種まく人」
「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」などがあり、
ドラクロアの作品も6点ほどあります。

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晩鐘(ルーブル美術館所蔵)

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落穂拾い、夏

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種まく人

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夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い

彼が38歳の時、知人に宛てた手紙が残されています。
『…額縁ができたら連絡して下さい。
中に絵を入れて見て、必要なら筆を入れる時間が欲しいのです。
題名から予想できる通り(題名:森の薪(たきぎ)拾いの人々 等)、
これら制作中の作品は、神話でも裸婦でもありません。私はそういう主題
以外のもので身を持(じ)してゆきたいのです。
と言ってもそういう主題だからと言って人が私を擁護してくれるなどとは
思いませんが。しかし強制されてやりたくはありません。
自然の側面から受けた印象の結果でないものを作るつもりはありません。…』

私の好きなミレーの作品を2点ご紹介します。

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ポーリーヌ・オノの肖像

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鏡の前のアントワネット・エベール

「ポーリーヌ・オノの肖像」と「鏡の前のアントワネット・エベール」です。
ポーリーヌ・オノの肖像は、山梨県立美術館でご欄になれます。
ミレーの最初の妻であるポーリーヌは病弱のため結婚3年目に不帰の人と
なります。
絵の前に立つとき、そのつつましやかさが伝わってくる素敵な絵です。
好みで言えば、「種まく人」より、こちらの絵の方が好きです。
もう一つの作品「鏡の前のアントワネット・エベール」は、
アメリカ人個人蔵のため今回見ることができないのですが、
ミレーの代表作の一つです。是非一度本物を見てみたいものです。
この絵は、ポーリーヌの亡くなった翌年に描かれています。
彼の親しい友人であるフーアルダンの奥さんの子供です。
鏡に映った自分の顔に無邪気に見惚(みと)れる少女への
ミレーの深い愛情が感じられます。
これが後年のミレーの、農家の子供たちに向けられる優しい視線に
つながって行きます。

なお、鏡の利用は後年、
マネの「フォリー・ベルジェール劇場のバー」などにもその影響が見られます。
この絵で、中央の女性の後ろは鏡に映ったものが描かれています。

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マネ:フォリー・ベルジェール劇場のバー
(コートールド美術研究所(ロンドン)所蔵)

ミレーは、晩年ようやく貧困から解放され、家族に見守られながら
60歳で亡くなっています。
ミレーの絵は、見終ったあとやさしい気持ちになれます。
府中市美術館館長の井出洋一郎(いでよういちろう)さんが、
「もし、美術館巡りをするなら、迷わずミレーを加えて欲しい」と
著書「農民画家ミレーの真実」で書いておられるが、
素直にうなずける気がします。
山梨(甲府)に行かれたら是非、県立美術館を訪れることをお奨めします。
http://www.art-museum.pref.yamanashi.jp/

先日、国立新美術館(六本木)に「オルセー美術館展」を見に行きました。
http://www.nact.jp/
その中にミレーの「晩鐘」が展示されていてビックリしました。
50×60cmほどの小さな絵ですが、良いものはやはり素敵です。
マネの「笛を吹く少年」、モネの「サン=ラザール駅」や
カバネルの「ウィーナスの誕生」等々オルセー美術館が所蔵する
84点を展示してありました。
山梨までは行けないという方は是非こちらをご覧ください。
なお、9月中旬から、府中市美術館でもミレー展が予定されています。

どなたの言葉か忘れましたが、「人格を磨くなら、良いものを沢山見なさい」
というのは本当だと感じます。
今は、絵画しか見ていませんが、
是非絵画以外でも良いものを観る時間を作りたいと思っています。

参与 大隅 晃

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2014年3月27日 (木)

エイト社員ブログ 「採用時の仲間、55回目の同期会」

3月26日は、記念すべき日である。55年前、桜満開の皇居田安門をくぐり
警視庁警察学校に入校した仲間55名が始まりである。

1年間の採用時教養は、6時起床、22時消灯、
この間息つくヒマがないほどの訓練の連続、耐えられなく3名が脱落、
卒業できたのは52名でした。

この仲間も、途中退職や死亡なとで30名だけとなってしまった。
若い時代は、刑事一番はだれか、昇任はだれがはやいか、
結婚は、などを張り合いながら頑張った仲間です。

70を過ぎてからは、体調不調などで欠席する者も出始めたが、
20名近くが毎回参加している。苦しいとき同じ釜の飯を食った仲間だけに、
どんな会合より楽しみである。

長続きの背景は、永久幹事がいて、
日時と会場が変わらないことかもしれない。
幹事の輪番制ではこううまくいかないのではと思う。

同期生は本当にいいものである。

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監査役 千葉 久公

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2014年3月20日 (木)

エイト社員ブログ「フライングガール 高梨沙羅 賛歌」

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 平成26年2月12日は、高梨沙羅さんにとって忘れられない日となったことでしょう。
冬季オリンプック ノルディックスキー女子ジャンプで4位となった日です。
私同様、テレビで深夜応援された方も多かったと思います。
17歳とはとても思えない毅然とした姿は今思い出しても感動します。
沙羅さん、ご苦労様でした。

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 今回の冬季オリンピックでは、スノーボードをはじめ若い力が
何とも頼もしく感じられました。随分、勇気と元気を貰いました。
おじさん(私)も『ガンバラねば』と思った次第です。

松原孝臣著『フライングガールズ』(副題:高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦)は、
女子ジャンプ陣の紹介文です。
女子ジャンプを育ててきた先達たちの大変さも描かれています。
ソチオリンピックより数ヶ月前に書かれたもので、
少し取材が薄くかつ荒い気もしますが、
新しいこと(女子ジャンプ)を始める時の息吹を感じることができます。

 競技直後のインタビューで、沙羅さんは、次のように答えています。

「今まで支えてくださった皆さんに感謝の気持ちを伝えるために
この場所に来たので、そこでいい結果を出せなかったことはすごく残念です」

 また、ソチオリンピック後、沙羅さんは、2018年の平昌(ピョンチャン)
五輪に向けての意気込みを問われて、
「4年後に向けて、もっと技術面と精神面を鍛えないといけない。
ソチは悔しい思いをしたけど、たくさんの方々の前で飛べたのは幸せ。
会場を楽しませるジャンプをしたい」と答えています。

 あらたな目標に向かって前進する姿は、17歳とはとても思えません。
若い力を大切に育てていく社会的な環境を応援したい気がしたのは、
私だけではないでしょう。

 「プレッシャー」あるいは「重圧」という言葉があります。
プレッシャーに耐えるための本も幾つか出版されています。

  例えば、「平常心」 「気分転換」 「自分を客観視する」 「自分を信ずること」
 「リラックス」 等々 が書かれています。オリンピックという場面で、
金メダル確実と言われて、
そのプレッシャーはものすごいものだったと想像できます。
 その場面で 「平常心」 などというものは保てるものかどうか?
 「気分転換」 など出来るものなのかどうか? 究極のテーマなのだと思います。
 沙羅さんが、それに向かってこれからの4年間を過そうと考えていることに、
心から敬意と尊敬を覚えます。

 マラソンの有森祐子さんが、2回目のオリンピックのゴール後のインタビューで
「…… 終わってから、なんでもっと頑張れなかったのかと思うレースは
したくなかったし、今回はそう思っていないし……、
初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語っています。
 沙羅さんにも、必ずその日が来ると信じています。

 沙羅さん ガンバレ !! 

取締役 管理本部副本部長 大隅 晃

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2014年1月 8日 (水)

エイト社員ブログ「主治医を変えて3年たったが」

9月ごろからの心配が12月26日、綺麗サッパリに晴れました。
大腸から取ったポリープ5個が良性だったからです。

この発見は主治医を変えて、出来た事で、女医のキメこまやかな指導が無ければ、
発見出来なかったと思う。東日本大震災の教訓から、
主治医は近くがいいと知り、自宅から10分のところある
大学病院をえらんで3年目になりました。
主治医が1年ごとに変わるということに不満がありました。

今の女医さんは3人目ですが、糖尿病治療について多角的な検査をとりいれ、
糖尿に影響している要素が他に無いか、細かな検査を取り入れ、
今までやったことのない膵臓、腎臓、肝臓、大腸を一度に検査し、
ポリープの発見に繋がったわけです。大学病院の凄さを感じました。

この病院はチョッとした病気なら、
医大出身の町医師を紹介してくれるシステムがあり、
地域と密着した医療にもちからを入れています。

5年かかり続けた主治医を変えるには、大きな決断が必要でした。

しかし、自分の病気を違った角度から見てもらうことは必要なことだと思いました。

今年は記念日が特に忘れられないものになりました。
結婚記念日の12月11日がポリープ手術、
誕生日の7月24日が東京オリンピックの開催日に決まったことで
あと7年先の開催日までがんばろうという気持ちになりました。

監査役 千葉 久公

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2013年11月 7日 (木)

青梅赤塚不二夫会館と「トキワ荘」

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 東京都青梅(おうめ)に青梅赤塚不二夫会館があります。
開館10周年記念の今年11月初旬に「イヤミのシェー!!展」が開催されていました。

赤塚不二夫は、小さい頃を新潟で過ごしており、
私と同郷だという近親感があり、見に行ってきました。

青梅宿・銀幕街道の真ん中にこの会館があります。
レトロな街並みで一瞬、昭和の初期に逆戻りしたような錯覚にとらわれます。

 ところで、漫画好きなら、『トキワ荘』という名前はご存じだと思います。
1952年12月6日に、東京都豊島区椎名町5丁目2253番地に棟上げされた
木造モルタル2階建てのアパートが、『トキワ荘』です。
手塚治虫が最初に入居し、その後、才能ある漫画家たちが多く集まった
アパートとして有名になりました。

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 手塚治虫(鉄腕アトム、ジャングル大帝、リボンの騎士)
 石森章太郎(仮面ライダー、サイボーグ009)
 藤子不二雄(オバケのQ太郎、ドラエモン)
 つのだじろう(空手バカ一代、うしろの百太郎)
 園山俊二(ペエスケ、ギャートルズ、花の係長)
 赤塚不二夫(おそ松くん、ひみつのアッコちゃん、天才バカボン)
 寺田ヒロオ(サラリーマン金太郎)
  水野英子(星のたてごと、ファイヤー)

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トキワ荘に入居するには、
(1)『漫画少年』で寺田が担当していた投稿欄「漫画つうしんぼ」の中で
優秀な成績を収めていること。
(2)協調性があること。
(3)最低限、プロのアシスタントが務まったり、穴埋め原稿が描けたり
する程度の技量には達していること。
(4)本当に良い漫画を描きたいという強い意志を持っていること。
といった基準で厳格な事前審査が行われていたと言われています。

赤塚不二夫の著書『酒とバカの日々』
(このタイトルは、当時アンディーウィリアムスらが歌っていた
ヒット曲の題名「酒とバラの日々」をパロディー化したものだと思います)
を読むと、当時の生活ぶりが偲ばれます。

同時に、いかに真剣に漫画と取り組んでいたかが分かります。
赤塚は、化学薬品工場に勤め、夜になると二人(石森、赤塚)で
漫画を描いており、それでも毎日、一個のギャグをノートに書かないと
寝なかったと言われています。『まんが トキワ荘物語』の中に、
赤塚の次のような言葉が載っています。

「ぼくがトキワ荘に住んだころは、まだまんがでメシを食える状態ではなかった。
 机もなんにもない部屋で売れないまんがをセッセと毎日かいていた。・・・
しかし、意外とのんびりしていたのは、性格からだけではない。トキワ荘はまんが
の宝庫だった。生きたまんがの参考書がゴロゴロいるのだ。
アイデアに絵にまんがのことでいきづまると寺田、石森、藤子と先輩の部屋へ
おしかけ相談した。毎夜集まって夜明けまでまんがを論じ合った。そのころ
見ききしたことが今日のぼくに大きくプラスしている。・・・・」

当時の仲間の存在がいかに大きかったかを窺わせます。
石森章太郎の著書『トキワ荘の青春』の中で、急ぎの穴埋め(漫画)原稿の
作成を石森が赤塚にやらせている場面が書かれています。
赤塚が、ギャグ漫画のレールを走り出したきっかけとなったものです。
お互い、切磋琢磨しながらの中での友情の素晴らしさを感じます。

 それにしても、「ひみつのアッコちゃん」を発表して数年後には
「天才バカボン」が作られています。どちらも、赤塚不二夫という
一人の漫画家によって作られていることに驚愕します。
しかし、彼らの日頃の生活ぶりをみると、
何の不思議もないのかもしれません。描きたいもの(アイデア)が
次々に湧いてくるのでしょう。

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 青梅赤塚不二夫会館では、小さな部屋いっぱいに置かれた
赤塚不二夫の作品に囲まれ、ものすごく楽しい気分を満喫できました。

人は、たとえ健康な時であっても、一人では何もできないものです。
社会の仕組みを借り、眼に見えない人たちの働きによって、
毎日の生活が成り立っています。だから、そういった人達のお世話になりながら、
しかし幾ばくかの闘志を持って暮らすべきなんだなあとあらためて感じました。

取締役 管理本部副本部長 大隅 晃

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2013年9月29日 (日)

国立新美術館  アメリカン・ポップ・アート展

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 田辺聖子著『文車(ふぐるま)日記』のあとがきに、次の一文があります。

 “ 人生を生きるのに、愛するもの、好きなことを一つでも多く増やすのは、
たいへん、たのしい重要なことですから・・・ ”

とくに“たのしい重要なこと”という一節が好きです。
そのお陰で? 2年前からは、絵画の鑑賞が“好きなこと”に加わり、
先日も、乃木坂(六本木)にある国立新美術館(アメリカン・ポップ・アート展)
に行ってきました。

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「ポップ・アート」の「ポップ」は、英語の“popular”(大衆)から
きていて、主題は日常生活であり、伝統や生活習慣にルーツを持つもの、
大衆によって愛されるものです。

 1960年頃と言えば、ビートルズ、エルヴィス・プレスリーの歌、
マリリン・モンロー、ジェームス・ディーンの映画、
1963年のジョン・F・ケネディの暗殺、1964年ベトナム戦争勃発 等々
 さらには、ホット・ドッグ、コカコーラ、革ジャケット、
プレイボーイ(雑誌名) などがこの時代を象徴した出来事です。

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(左:カーター大統領、右:アンディ・ウォーホル)

 画家:アンディ・ウォーホル(1930~1987年)の《マリリン》シリーズは、
モンローの死後に制作されたもので、見る側(私たち)に、
その「マスク」で彼女を見分け、つややかな髪、明るい瞳、
官能的な唇を、模倣することを求めています。

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ピカソが20世紀前半を代表するアーティストだとすれば、
20世紀後半を代表するのがウォーホルだといわれています。
もっとも、ウォーホル自身は“商業美術で成功した自信”によって
純粋美術(マチス、ルノアール等)でも成功しようという野望と
冷静な計算がありました。

ですから、その画材は誰でも知っているもの
(マリリンモンロー、毛沢東、キャンベルスープ缶 等々)
でなければ成り立たないのです。

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 (100Cans:1962年)

キャンベル・スープ缶の絵が、ポップ・アートの始まりを告げたといわれています。
一見どれも同じように見えながら、トマトスープ、チキンヌードル、
クラムチャウダー、アスパラガス・クリームなど種類が違います。

 画商でインテリア・デザイナーのミリュエル・レイトにアイデアを求め、
1961年にキャンベル・スープ缶のアイデアを50ドルで買ったと言われています。
今のお金で換算すると三十万円位?でしょうか。

 アメリカン・ポップ・アートは、1950年代までのヨーロッパの影響
(印象派の絵画等)に対して新たに得た自信から生まれ出たもので、
最初の推進力はアメリカ精神そのものであり、
ハリウッドとニューヨークでブームを迎えたのは必然とも言えます。

 この日は、南 雄介(国立新美術館副館長・本展監修者)氏の
講演も拝聴できました。 写真をベースに作成したことや、
型枠を使って上からスプレーで吹き付けて作っていることなど
興味深い話がありました。

 リキテンシュタインの「鏡の中の少女」(No.20の絵)、
オルデンバーグの「ジャイアント・ソフト・ダラムセット」(No.12の絵)、
ウェッセルマンの「グレート・アメリカン・ヌード」(No.23の絵)など、
とても印象的でした。

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 家に帰って、エルヴィス・プレスリーの曲: ハートブレイク・ホテル、
ブルー・スウェード・シューズ、監獄ロック、ラヴ・ミー・テンダー、
ドント 等々の曲を聴きました。

昔は、ロックはうるさいという感じでしたが、
今聴くととてもやさしい感じがします。 ミュージシャンのROLLYさんが、
シャンソンの祭典「パリ祭」に出演して、「ロックの人がなぜシャンソンを?」
と聞かれ、僕にとっては「そこにないことをやる」のがロックなんです
と答えています。1960年代というのもそんな時代だったのかもしれません。

取締役 管理本部副本部長 大隅 晃

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2013年9月23日 (月)

怪我の子ガモにーまさかが

三井物産の人工池でふ化した10羽のうちスッポンに足を食いちぎられた 「モカ」、
割りばしの先に柿の種ほどしか残っていなかった袋が1ヶ月もすると小さな水かきに成長した。

1mの歩行がやっとだったモカも10mの歩行が可能になった。
こんな時、何時も姉のように側に付きっきりだったもう1羽の姿がぷつりと消えた。

そのワケは2羽が飛び立つて初めて分かった。 二つ目のまさかは、
思いもよらない旅だちである、8月23日、 この日を最後にモカは、堀から消えた。

怪我の発見から40日目である。 モカは何時も私たちが
到着する前には必ず姿を見せていた。 和気清麻呂像前の草むらでエサを食べていた。

2時間も同じ場所に居ることから、 最近では、カメラを構えるファンも出来たほどである。
モカの日課は、着地訓練と飛行訓練の連続だった。

片足飛行からの着地のダメージを和らげるため、
土手の10m手前に着水し、 そこから土手まで飛ぶというスタイルの繰り返しだった。
低空の飛行は、3キロほど離れた警視庁前の堀までで、
ここには、姉ガモが待っていたのだ。姉ガモは旅だちの訓練をさせていたのである。

まさかのその3はあるのか。 北海道のサケの遡上や
屋久島のウミガメの産卵などの習性から見ても、
人工池での産卵のDNAを持つカルガモのなかでも、
ケガした2羽は、40日も多く堀の生活が続いた。

DNAの強さは、相当なものと思う。 もしも元気で育つてくれれば、
まさかの第3のステージがあるのカモ。 夢を信じて、冬の到来を待ちたい。

Chiba20130923

監査役 千葉 久公

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